| 西 暦 |
年齢 |
年 譜 |
1886年
(明治19) |
0歳 |
2月10日、東京市麹町区三番町で生まれる
父 平塚 定二郎、母 光沢(つや)の三女、本名 明(はる) |
| 1892年 |
6歳 |
富士見小学校に入学 |
| 1894年 |
8歳 |
本郷区駒込曙町に転居。誠之小学校へ転校 |
| 1898年 |
12歳 |
東京女子高等師範学校付属高等女学校(お茶の水高女)入学 |
| 1903年 |
17歳 |
日本女子大学校家政学部に入学 |
| 1905年 |
19歳 |
禅の修行に励む。速記術を習得 |
| 1906年 |
20歳 |
日本女子大を卒業。女子英学塾や二松学舎で英語を学ぶ |
| 1907年 |
21歳 |
成美高等英語女学校に通い、閨秀文学会に参加 |
| 1908年 |
22歳 |
閨秀文学会の回覧雑誌に「愛の末日」を書く。森田草平との交際が深まり3月「塩原事件」をおこす。9月から信州に滞在、12月帰京 |
| 1909年 |
23歳 |
蝋八接心に参加し中原南天棒老師から「全明」の安名を受ける |
| 1911年 |
25歳 |
雑誌『青鞜』を創刊。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」を「らいてう」の筆名で書く |
| 1913年 |
27歳 |
『円窓より』刊、直ちに発禁となる |
| 1914年 |
28歳 |
1月 奥村博史と共同生活に入る |
| 1915年 |
29歳 |
1月から『青鞜』の発行を伊藤野枝に委ねる
9月 博史 結核で茅ケ崎の南湖院に入院。12月 長女 曙生 誕生 |
| 1917年 |
31歳 |
9月 長男 敦史 誕生 |
| 1918年 |
32歳 |
田端に家を買い転居。与謝野晶子らと母性保護論争 |
| 1919年 |
33歳 |
大阪で新婦人協会の創立を発表。12月『婦人と子供の権利』刊 |
| 1920年 |
34歳 |
市川房枝、奥むめおらとともに新婦人協会で治安警察法改正などの請願運動を始める
3月 新婦人協会発会式。10月 機関誌『女性同盟』発刊 |
| 1921年 |
35歳 |
激しい活動で健康をそこね、夏以降 家族とともに転地療養 |
| 1922年 |
36歳 |
3月 治安警察法第五条第二項改正される。女性の政治集会への参加を実現 |
| 1925年 |
39歳 |
千歳村烏山に転居。博史、成城学園の教師となる |
| 1927年 |
41歳 |
砧村喜多見(のち成城町)に自分で設計した新居完成し入居 |
| 1930年 |
44歳 |
成城に「消費組合我等の家」を設立し組合長となる
高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加、『婦人戦線』に寄稿 |
| 1931年 |
45歳 |
河崎なつ、石本静枝らとともに日本産児調節連盟を結成 |
| 1938年 |
52歳 |
母の病気を機に「食養」の研究・実践を始める |
| 1939年 |
53歳 |
中山貞子を知り「てのひら療法」の治療を受け、これを習得 |
| 1941年 |
55歳 |
博史との婚姻届を提出し奥村姓になり、敦史は嫡出子となる |
| 1942年 |
56歳 |
博史とともに茨城県小文間村戸田井に疎開し、農耕生活を始める |
| 1945年 |
59歳 |
戸田井で敗戦を迎える。市川房枝らの新日本婦人同盟の結成にメッセージを送る |
| 1946年 |
60歳 |
日本国憲法の戦争放棄・平和の精神に共鳴 |
| 1947年 |
61歳 |
疎開地より帰京。平和問題について学ぶ |
| 1948年 |
62歳 |
市川房枝の公職追放取消運動に協力 |
| 1949年 |
63歳 |
世界連邦建設同盟に入会。エスペラント語の学習を始める |
| 1950年 |
64歳 |
講和条約締結にあたって「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」をガントレット恒子、野上弥生子、上代たの、植村環とともに連名で来日中のダレス米国務省顧問に提出 |
| 1951年 |
65歳 |
市川房枝らとともに再軍備反対婦人委員会を結成し委員長となる |
| 1952年 |
66歳 |
高良とみ帰国歓迎集会で挨拶 |
| 1953年 |
67歳 |
(全)日本婦人団体連合会結成、会長となる。国際民主婦人連盟主催の世界婦人大会参加の運動を機に国際民主婦人連盟副会長に就任 |
| 1954年 |
68歳 |
原水爆の製造、実験、使用禁止の「全世界の婦人にあてた日本婦人の訴え」を発表、国際民主婦人連盟に送り、世界母親大会、日本母親大会開催の原動力になる |
| 1955年 |
69歳 |
湯川秀樹らとともに世界平和アピール七人委員会のメンバーとなる
日本婦人団体連合会会長を辞任 |
| 1957年 |
71歳 |
日本婦人団体連合会名誉会長となる |
| 1960年 |
74歳 |
各界25名の女性と連名で「完全軍縮支持、安保条約破棄を訴える声明」を発表 |
| 1962年 |
76歳 |
新日本婦人の会結成、代表委員となる。婦選会館理事となる |
| 1964年 |
78歳 |
奥村博史 死去 |
| 1966年 |
80歳 |
アメリカのベトナム北爆に反対し、深尾須磨子ら各界の代表的婦人とともに「ベトナム話し合いの会」を組織。アメリカと参戦国婦人への反戦を訴える平和カードの波運動を展開 |
| 1967年 |
81歳 |
新日本婦人の会代表委員を辞任、顧問となる |
| 1970年 |
84歳 |
「安保条約の固定期限の終わる6月22日にあたって訴える」声明を発表、6月23日 櫛田ふき婦団連会長らと成城の町をデモ行進
7月「ベトナム母と子保健センター」設立の運動を呼びかける。8月 入院 |
| 1971年 |
85歳 |
5月24日死去。博史とともに川崎市生田の春秋苑に眠る |