NPO法人平塚らいてうの会
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●年譜


平塚らいてう

1886(明治19)年2月10日東京生まれ。戸籍名明(はる)。女性が自由に生きられない社会に疑問を抱いたらいてうは、日本女子大学校進学後禅を手がかりに自分を見つめつづけ、やがて雑誌『青鞜』を発刊して「隠されてしまった我が太陽を取りもどそう」とよびかけます。恋愛も結婚も出産も自分の意思で決め、「後ろを振り向かない」姿勢は生涯変わりませんでした。第一次大戦後、女性の手で平和な世界を築こうと市川房枝らと新婦人協会を結成して女性参政権を要求、また消費組合運動にも参加しました。戦後は日本国憲法に共鳴して「世界平和アピール七人委員会」に参加、日本婦人団体連合会、母親運動、新日本婦人の会などに協力。信州あずまや高原は、若いころ信州に滞在して自然に惹かれたらいてうが、戦後「いつか野の花、野の鳥と親しみたい」と求めた土地です。らいてう自身は平和運動に忙しく、夢をはたさないまま1971(昭和46)年5月24日85歳で死去。「憲法を守りぬく覚悟」のよびかけが最後のメッセージになりました。

 平塚らいてうの年譜

西 暦 年齢 年               譜
1886年
(明治19)
0歳 2月10日、東京市麹町区三番町で生まれる
父 平塚 定二郎、母 光沢(つや)の三女、本名 明(はる)
1892年 6歳 富士見小学校に入学
1894年 8歳 本郷区駒込曙町に転居。誠之小学校へ転校
1898年 12歳 東京女子高等師範学校付属高等女学校(お茶の水高女)入学
1903年 17歳 日本女子大学校家政学部に入学
1905年 19歳 禅の修行に励む。速記術を習得
1906年 20歳 日本女子大を卒業。女子英学塾や二松学舎で英語を学ぶ
1907年 21歳 成美高等英語女学校に通い、閨秀文学会に参加
1908年 22歳 閨秀文学会の回覧雑誌に「愛の末日」を書く。森田草平との交際が深まり3月「塩原事件」をおこす。9月から信州に滞在、12月帰京
1909年 23歳 蝋八接心に参加し中原南天棒老師から「全明」の安名を受ける
1911年 25歳 雑誌『青鞜』を創刊。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」を「らいてう」の筆名で書く
1913年 27歳 『円窓より』刊、直ちに発禁となる
1914年 28歳 1月 奥村博史と共同生活に入る
1915年 29歳 1月から『青鞜』の発行を伊藤野枝に委ねる
9月 博史 結核で茅ケ崎の南湖院に入院。12月 長女 曙生 誕生
1917年 31歳 9月 長男 敦史 誕生
1918年 32歳 田端に家を買い転居。与謝野晶子らと母性保護論争
1919年 33歳 大阪で新婦人協会の創立を発表。12月『婦人と子供の権利』刊
1920年 34歳 市川房枝、奥むめおらとともに新婦人協会で治安警察法改正などの請願運動を始める
3月 新婦人協会発会式。10月 機関誌『女性同盟』発刊
1921年 35歳 激しい活動で健康をそこね、夏以降 家族とともに転地療養
1922年 36歳 3月 治安警察法第五条第二項改正される。女性の政治集会への参加を実現
1925年 39歳 千歳村烏山に転居。博史、成城学園の教師となる
1927年 41歳 砧村喜多見(のち成城町)に自分で設計した新居完成し入居
1930年 44歳 成城に「消費組合我等の家」を設立し組合長となる
高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加、『婦人戦線』に寄稿
1931年 45歳 河崎なつ、石本静枝らとともに日本産児調節連盟を結成
1938年 52歳 母の病気を機に「食養」の研究・実践を始める
1939年 53歳 中山貞子を知り「てのひら療法」の治療を受け、これを習得
1941年 55歳 博史との婚姻届を提出し奥村姓になり、敦史は嫡出子となる
1942年 56歳 博史とともに茨城県小文間村戸田井に疎開し、農耕生活を始める
1945年 59歳 戸田井で敗戦を迎える。市川房枝らの新日本婦人同盟の結成にメッセージを送る
1946年 60歳 日本国憲法の戦争放棄・平和の精神に共鳴
1947年 61歳 疎開地より帰京。平和問題について学ぶ
1948年 62歳 市川房枝の公職追放取消運動に協力
1949年 63歳 世界連邦建設同盟に入会。エスペラント語の学習を始める
1950年 64歳 講和条約締結にあたって「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」をガントレット恒子、野上弥生子、上代たの、植村環とともに連名で来日中のダレス米国務省顧問に提出
1951年 65歳 市川房枝らとともに再軍備反対婦人委員会を結成し委員長となる
1952年 66歳 高良とみ帰国歓迎集会で挨拶
1953年 67歳 (全)日本婦人団体連合会結成、会長となる。国際民主婦人連盟主催の世界婦人大会参加の運動を機に国際民主婦人連盟副会長に就任
1954年 68歳 原水爆の製造、実験、使用禁止の「全世界の婦人にあてた日本婦人の訴え」を発表、国際民主婦人連盟に送り、世界母親大会、日本母親大会開催の原動力になる
1955年 69歳 湯川秀樹らとともに世界平和アピール七人委員会のメンバーとなる
日本婦人団体連合会会長を辞任
1957年 71歳 日本婦人団体連合会名誉会長となる
1960年 74歳 各界25名の女性と連名で「完全軍縮支持、安保条約破棄を訴える声明」を発表
1962年 76歳 新日本婦人の会結成、代表委員となる。婦選会館理事となる
1964年 78歳 奥村博史 死去
1966年 80歳 アメリカのベトナム北爆に反対し、深尾須磨子ら各界の代表的婦人とともに「ベトナム話し合いの会」を組織。アメリカと参戦国婦人への反戦を訴える平和カードの波運動を展開
1967年 81歳 新日本婦人の会代表委員を辞任、顧問となる
1970年 84歳 「安保条約の固定期限の終わる6月22日にあたって訴える」声明を発表、6月23日 櫛田ふき婦団連会長らと成城の町をデモ行進
7月「ベトナム母と子保健センター」設立の運動を呼びかける。8月 入院
1971年 85歳 5月24日死去。博史とともに川崎市生田の春秋苑に眠る


 これまでのおもな活動

1973年  自伝『元始、女性は太陽であった』完結
1992年  平塚らいてうを記念する会発足
 日本女子大学同窓会「桜楓会」らいてうの復権を決定
1998年  神奈川県茅ヶ崎市に平塚らいてう記念碑建立
2001年  平塚らいてうを記念する会は、NPO法人平塚らいてうの会へ
 記録映画「平塚らいてうの生涯―元始、女性は太陽であった」(羽田澄子監督作品)完成
2006年  長野県上田市真田町に「らいてうの家」完成